<マイナスを活かす>
「うん? わしが成功した理由か? そやなあ、ようわからんな。きみが聞くように時折、どうしてあんたはこんなに会社を大きくしたのか教えてくれ、どんな方法があるのか教えてくれ、というようなことを聞かれるときがあってな。けど、そんなことは聞かれても、あれへんわけや。けどな、強いて言えば、わしが凡人やったからやろうな。人と比べて誇れるようなものはない。それがよかったと思う」

<マイナスを活かす>「衆知を集めて経営をしたのも、わしが学校出てなかったからやな。もし出ておれば、わしは人に尋ねるのも恥ずかしいと思うやろうし、あるいは聞く必要もないと思ったかもしれん。けど幸いにして学校へ行ってないからね。そういうことであれば、人に尋ねる以外にないということになるわな。それで経営も商売も、人に尋ねながらやってきた。それがうまくいったんやな。そういうことを考えてくると、今日の、商売におけるわしの成功は、わし自身が凡人だったからだと言えるやろうな」

<マイナスを活かす>
事業部制は、1933年、世界的にも早い時期であった。しかしそれは、体が弱く直接に仕事をやることができなかったからである。それで自分に代わって仕事をやってもらおうと考えているうちに、自然に、それぞれの製品別に事業部をつくって、経営者を決めてやってもらうことを思いついた。のちに人材の育成とか責任の明確化とか、合理的な説明がなされるようになるが、もともとは自分の体が弱かったことがきっかけである。もし、頑健な体をしていたら、1から10まで全部自分がやってしまおうと思ったであろう。幸いにして体が弱かった。それがよかったということである。松下が大きな成功を収めることができた重要な理由として、自分の「弱さからの出発」という境遇をはっきりと見つめ、容認したということがある。自分が凡人であり、その凡人が事業に取り組むのだということを、自認したからこその成功であった。松下ははっきりと自分を普通の人間、平凡な人間、凡人として認識していた。松下は、性格的にも弱いほうであった。自分自身でもしばしばそう表現していた。しかし、一方では驚くべき強さがあった。常人では及びもつかない強さがあったこともまた事実である。特に、自分の信念を貫くことに厳しかった。自分の負っている責任に対して厳しかったし、とにかく自分自身に対してはつねに厳しかった。こうした厳しさ、強さはどこから出てきたのだろうか。その強さは、奇妙な言い方かもしれないが、自分の弱さを認識し、その弱さに徹したところから生まれてきたのではないかと思う。たいていの人間であれば、なるべく自分の弱さを隠そうとする。隠さないまでも、どこかで自分の「優位性」を表現しようとする。弱い自分をどこかで「強く」見せたいと考える。その無理が、逆にその人本来の魅力を失わせる。しかしほんとうの自分を素直にさらけだす者には、魅力が生まれる。そばにいる人の心を開かせ、かえって存在と迫力を感じさせるようになる。と同時にもうひとつ、松下はその弱さから出発しながら、弱さを現実において「強さ」に変える意思を持っていた。弱さを強さに変えるためには、どうすればいいのか。日々、一歩一歩を積み重ねていくことである。人に尋ねたほうがいいと思うならば、素直に尋ねる。その日なすべき仕事に、誠実を尽くす。恵まれた能力がないというのであれば、人一倍の熱意でことにあたる。そのような小さなことの積み重ねが、平凡を非凡に変え、弱さを強さに変えてくれる。このように考えてくると、成功を目指す者が心すべきことは、中途半端に自分ひとりを高きところに置き、見せかけの強さから出発してはならないということである。成功を目指す者が心すべきことは、自分の弱さを直視し、認識し、それを出発点にして、なおかつその弱さを徹底して貫き通し、平凡なことを誠実に熱意をもって積み重ねることによって、本当の強さを生み出していこうとすることである。

<幸之助の怒り>
「きみ、いまから来いや!」
松下幸之助からの電話である。もう夕方、とうに5時を回っている。声の調子からあまりご機嫌がよくないことがわかった。これはどうもよくないようだ。とにかくすぐに参上しよう、しなければならない。しかし、何かあったのか。何を叱られるのだろうかと、いささか動揺しながら思いを巡らす。「こんばんは、遅くなってすみません」と恐る恐る言う私を、いつもの笑顔をまったく見せず、厳しい顔で眉間にしわを寄せ、下から
カッと睨み上げながら、「きみは何を考えて仕事をしとるんや。これは何や」ときつい調子で尋ねた。「この仕事できみが正しいと思うことはなんやねん」。問いかけに対してぼそぼそと答える私に、「それがわかっておって、やっておらんということは、どういうことや」とたたみ掛ける。執拗に叱り続ける松下を見ながら、私は心の中で相済まなかった、申し訳なかったと反省しながらも、何もこんなにまで怒ることはないのではないか、という思いも湧いてきた。見方によっては松下の言うとおりかもしれない。しかし、仕事には流れというものがある。必ずしも正しいことばかりで仕事が進められるものではないし、やがてきちんと元に戻すつもりだったのだ、というような弁明が、ネオンサインのようについては消え、消えてはつく。弁明したいが、とても言えるような雰囲気ではない。じっと立ち続け、聞き続けているうちにチラリと時計を見ると、すでに1時間が過ぎている。もう終わってもいいのになあ、今晩は食事ができるだろうか、家では用意してくれているだろうかと、口では反省の弁を述べながらも、頭の中では他のことばかりを考えている。しかし、それを見抜いているように松下の叱責は続く。言葉、内容は先ほどから同じことの繰り返しである。もう黙って聞いているより他にない。しばらくしてまた時計を盗み見ると、また1時間がたっている。これで2時間も怒られたことになる。その頃になると、怒り続け、叱り続けている松下を見て、だんだん感動してくる。凄いな、歳は自分の半分の部下に、これほどの情熱をかけて一生懸命に叱ってくれる。注意してくれる。それが個人的な感情、私情にとらわれてではないことがわかってくる。激しい怒りの言葉の奥に温かさ、やさしさが感じられるからである。自分が悪かった、ああいうところは我慢してやらなければいけなかったと、自然に気がついてくる。わかってくる。3時間ほどたつと、松下からの叱責が心からありがたいと思われてくる。「わかった、ええわ」。叱り疲れたのか、多少なりとも私が反省したのがわかったのか、呟くようにそう言って、もう遅いから帰れと松下が言う。夜の十時である。そんなことが、36歳で経営をまかされてからしばらくは、年に4回くらいあった。松下から叱られる風景はこれに限られるわけではないが、一つの例として再現すればそういうことだった。

<幸之助の怒り 注意点>
松下のこの叱り方を単純に模倣してはいけない。「そうか、3時間も叱れば部下は感動するものなのか。自分もやってみよう」などと思わないでいただきたい。そのやり方の、表面的な理解だけで松下になったつもりで振る舞えば、逆に部下から軽蔑されること必定である。松下には、自分で考え抜いた人間に対する見方、考え方が前提として存在していた。そして人間の価値に対する絶対的評価があった。人間は尊い存在である、その人間観が前提にあって、松下のすべての言動があった。その人間観を抜きにしたままで、やり方だけを模倣すれば、逆の結果を招くことになる。これは本書のすべてに同じことが言える、重要な部分である。

<幸之助の怒り>
松下の叱り方は、時として尋常を越えることがあった。厳しい言葉、厳しい視線。キッと私を睨みつけて、もうこれ以上憎たらしい者はいないというような表情と口調。思わず震え上がるか気絶するような、そんな雰囲気の叱り方をするときがあった。若いころはもっと凄かったという。実際、松下電器を経て三洋電機の創立に参加された後藤清一氏は、松下に叱られてほんとうに気を失ったエピソードを著書で述べておられる。松下の叱り方が生易しいものではなかったのは確かである。

<幸之助の怒り 胸の内>
「えっ?わしが部下を叱るときには、何かを考えたり、配慮するというようなことはないよ。とにかく叱らんといかんから叱るわけで、このときはこういう叱り方をしようとか、考えて叱るということはないな。なんとしても育ってもらわんといかんわけやから、あれやこれや、姑息なことを考えながら叱ることはあらへんよ。そんな不純な叱り方はせんよ。私心なく一生懸命叱る。叱ることが部下のためにも組織全体のためにもなると思うから、命がけで叱る」「叱るときには、本気で叱らんと部下は可哀想やで。策でもって叱ってはあかんよ。けど、いつでも、人間は誰でも偉大な存在であるという考えを根底に持っておらんとね」松下の叱り方が激しいものであったにもかかわらず、結局はその叱り方に温かさとやさしさを感じるのは、そうした松下自身の人間観によるものであろう。松下が激しく怒っている、その瞬間にも、この人には部下に対する思いがあるのだということが自然に感じられた。そして、私的な感情からではなく、公の立場に立っての叱責であることが感じられた。だからこそ、松下は「叱り方」がうまいと言われた。そして松下に叱られたことを自慢する人が多いのだと思う。

<熱意>
「きみ、将来必ず重役になれる方法を教えてあげようか」と、松下が言ったことがあった。
「入社1日目に、会社から帰ってきたとき、家族にどう報告するかや。 とてもいい会社のように思うから、ここで大いに仕事をしてみたい、と言うことができるかどうか。それが成功への第一の関門やね。そういう心がまえからすべてが生まれてくるものや」
そのように仕事を始めると、友だちに会ったときにも親戚に会ったときにも、同じように話す。その人の言動によって、家族、友人、知人の頭に、会社のいい印象が残って、それが人から人へと伝わり、会社の評判が高まる。いずれ販売を増やすことにもつながるだろう。世の中にはそういったところがある、と松下は体験的に知っていた。ところが、不平をもらす人は多くても、そういう簡単なことをやらない人が案外多い。だとすれば、会社をほめるという態度、心がまえで終始している人は、必ずどこの会社にあっても注目される。会社はそのような人を切実に求めているからである。その人を部長、重役にせずして、いったい誰をするのであろうか。その人は、求めずして、重役の地位についていくことになるだろう。

<当たり前のことをきちっとやる、天地自然の理>
「雨が降れば傘を差す。そうすればぬれないですむ。それは天地自然の理に順応した姿で、いわばごく平凡なことである。商売、経営に発展の秘訣があるとすれば、それはその平凡なことをごく当たり前にやるということに尽きるのではないか。具体的に言えば、100円で仕入れたものは適正利益を加えてお客さまが買ってくれると思われる価格、百数十円で売る。売ったものの代金はきちんと集金する。雨が降るのに、傘も差さずにぬれ放題というのは、よほど奇矯(ききょう)な人でなければやらない。ところが松下が長年の体験のなかで見ていると、商売や経営のこととなると、どうも当たり前のことをやらない人がちょくちょくいる。集金をきちんとしないで銀行から足りない資金を借りようとする。傘も差さずに歩き出す人が多い。非常に成功している人と、失敗した人を比べてみると、そこに理由がある」(江口)
(天地自然の理が自明の場合はそれに従うべき。ただしそれが自明でない場合はまずはそれを知る必要がある)

<当たり前のことをきちっとやる、天地自然の理>
「自然の理法は、生成発展の性質を持っておるんやから、ものごとは、この自然の理法にのっとっておるならば、必ず成功するようになっておる。成功しないのは、この自然の理法にのっとっていないからで、それは自分にとらわれたり、なにかにこだわったりして、素直に自然の理法に従うようなことをせんからやな」

<当たり前のことをきちっとやる、天地自然の理>
「いい物を生産し、多くの人たちに満足されるような安価で販売すれば、商売は繁盛する。人情の機微に即した商売のやり方をすれば、お客さんが大勢やってきてくれる。ごくごく当たり前のことをすれば、商売とか、経営というものは、必ず成功するようになっておるんや」

<運命は90%決まっている。残りの10%で勝負する>
「今日までの自分を考えてみると、やはり90%が運命やな。電気の仕事をやるにしても、わしがもし大阪でない、別のところにいたらどうであったか。電車を見ることもなかったから、電気の仕事をやろうと閃くこともなかったやろうな。
たまたま大阪の街に出ておった。特にとりたてて力のない平凡なわしが、一応仕事だけでも成功したということを思えば、なおさらのことやな。そういうことを考えてみると、人間はほとんどが運命だとつくづく感じるな。そういう幸運に、わしは心から感謝をしておるよ」「運命が90%だ、ということは残りの10%が人間にとっては大切だということになる。いわば、自分に与えられた人生を自分なりに完成させるか、させないかという、大事な要素なのだということや。ほとんどは運命によって定められているけれど、肝心なところはひょっとしたら、人間に任せられているのかもしれん」「たとえば船があって、自分が大きい船か、それとも小さい船か。それぞれの人にとってそれはひとつの運命かもしれないが、肝心の舵のところは人間にまかせられている、ということやね。無事にその船が大海を渡り、目指す港に着くことができるかどうか。残りの10%がその舵の部分であるということやな」「だから、運命が90%だから努力しなくていいということにはならんね。けれども、努力したから必ず成功すると考えてもあかんよ。しかし成功するには必ず努力が必要なんや。つまり、舵となる10%での人事の尽くし方いかんによって、90%の運命の現れ方が異なってくる。生き方次第で、自分に与えられた運命をより生かし、活用できるというわけやね」

<実力相応>
「取引先のうまくいっていないところをみるとな、やはりその店主の力以上のことをやっているんやな。ほとんど例外なしと言っていいほど、自分の力以上のことをやっているんや。それに対して、うまくいっているところは、その店主の力の範囲で仕事をしておったな。たくさんの得意先がおったから、それがよくわかるんや」

<聞き上手、褒め上手、質問好き>
「はたで見ていると、松下はどんなときでも感心して話を聞いていた。「いい意見やなあ」「その話は面白いな」「きみの、その話はおおいに参考になるわ」という具合に、大いにほめるのである」
(江口)

<聞き上手、褒め上手、質問好き>
「「わからないから教えて欲しい」と素直に尋ねるほうが、人情の機微をより心得ているというものであろう。それゆえお客さまは、ものを尋ねに来たのに、松下の思うまましゃべらされて、しかも満足して帰っていくということになるのであろう」
(江口)

<聞き上手、褒め上手、質問好き>
「衆知を集めるということをしない人は、絶対にあかんね。小僧さんの言うことでも耳を傾ける社長もいるけど、小僧さんだからと耳を傾けない人もいる。けど、耳を傾けない社長はあかん。なんぼ会社が発展しておっても、きっと潰れる会社やね。衆知を集めないというのは、言ってみれば、自分の財産は自分が持っている財産だけしかないと思っている人と同じやね。少しひらけた人なら良寛さんみたいなもので、全世界は自分のものだと思っている。しかし全部自分で持っているのはめんどうだから預けておこう、というようなもんやな。人間ひとりの知恵には限界があるんやから、その限度ある知恵だけでは、うまくいかんわけや」

<聞き上手、褒め上手、質問好き>
「「話をするよりも、話を聞くほうが難しいな。いくらいい話をしても、聞く心がなければ何も得ることはできんが、聞く心があれば、たとえつまらん話を聞いても、いや、たとえあの杉木立を鳴らす風の音を聞いても、悟ることができる人は、悟ることができる。そんなもんやで」
(江口による「きみ、風の音を聞いても悟る人がおるわなあ」の解釈)

<複眼思考>
「まあ、人間はひとつだけの物差しを使って考えたほうが容易であるから、どうしてもそうなるわな。二本の、あるいは三本の、ということになれば、複雑になるから、なるべく一本の物差しで明快に考えようとする。しかし、わしの経験からして、物事そんな簡単なものではないよ。だからたいていの場合、やり方を間違える。基本方針と個性というものは、見方によれば相反する考え方といえるが、そのいずれも否定すべきもんじゃないわな。その両方を生かし活用するところに、会社というか組織が発展する秘訣があるんや」

<役割分担>
「昔話で桃太郎というのがあるやろ。猿とキジと犬。みんな違うわね。違うから、それぞれの役割が生まれ、違うから鬼退治ができたわけやね。それと同じように、会社にもいろんな人がいないとあかんな。まあ、個性を持ったというか、特徴を持ったというか、そういう人の集まりにすることが大事といえるね」
「個性というものは、もともとひとつの、まあ、いわば拘束というものがないと発揮できんのや。非常に矛盾したことを言うようやけど、個性は拘束なくしてありえないんやね。障子と敷居鴨居の話でいえば、障子が障子でありうるのは、敷居と鴨居という拘束があるからや。障子が自由に開け閉めできるのは、上と下で挟まれておるからや。個性というのも同じことや。大工さんの道具箱でもそうやね。大工道具というひとつの方向があって、そのうえで道具はさまざまである。カンナもあればトンカチもある。ノコギリもあればノミもあるというようにね。それぞれに個性を主張しとるわね」

<徹底さ>
「一方はこれで十分だと考えるが、もう一方はまだ足りないかもしれないと考える。
そうしたいわば紙一枚の差が、大きな成果の違いを生む。
もう十分だと考えると、苦情があっても「ああいうが、うちも十分やっているのだから」ということになってつい反論する。
けれどもまだ足りないと思えば、そうした苦情に対しても敏感に受け入れ、対処していくということになる。
そういうことが、商品、技術、販売の上に、さらに経営全般に行なわれれば、
年月を重ねるにつれて立派な業績を上げるということになるわけである」

<経営者の心構え>
「心を許して遊ぶという言葉があるやろ。しかし、心を許して遊ぶ人は、経営者にはなれへんで。心置きなく眠る人もいるやろ。そういう人も経営者たる資格はないな」

<経営者の心構え><熱意>
「先憂後楽(せんゆうこうらく)という言葉があるやろ。せめて一つの組織の最高指導者ぐらいは、先憂後楽の心掛けで、その会社に命をかける思いがなければ、経営はうまくいかんね。社員と同じように、遊びとか休みとか言っておって、なおかつ経営が成功するなどということはありえないことや。経営というのはそんな簡単なものではないわ」

<経営者の心構え><熱意>
「自分はこの仕事に命をかけてやっているのかどうかと、これまで困難な問題に出くわすたびに自問自答してきました。そうすると、非常に煩悶(はんもん)の多いときに感じることは、命をかけるようなところがどうもなかったように思われるのです。それで、心を入れかえてその困難に向かっていきました。そうすると、そこに勇気がわき、困難も困難とならず、新しい創意工夫も次つぎと起こってくるのです。そういう体験をたくさん持っています」

<熱意>
「仕事をする、経営をするときに何がいちばん大事かと言えば、その仕事を進める人、その経営者の熱意やね。あふれるような情熱、熱意。そういうものを、まずその人が持っておるかどうかということや。熱意があれば知恵が生まれてくる」「たとえば、販売のやり方がわからん、けど、なんとしても商売を成功させたい、そういう懸命の思い、熱意というものがあれば、そこになんとかしようという工夫が生まれ、成功の道が発見されるようになるんやな。新しい商品をつくりたい、と、ほんまにそう考えるのであれば、人に素直に教えを乞う、指導を仰ぐ、謙虚に耳を傾けるということもできるわな。いちばんうまくいく方法も考え出されてくる」「わしは学問もあまりないし、そのうえ体も弱かった。そういう点では、たいていの部下より劣っている。そのようなわしが、ともかくも大勢の人の上に立ち、経営にそれなりの成功を治めることができたのは、一(いつ)にかかって熱意にあったと思う。この会社を経営していこうという点については、自分が誰よりも熱意を持たなくてはいけない、それが自分にとっていちばん大事なことだ、と、いつも心掛けてきた」

<熱意>
「なんとしてでもこの2階に上がりたいという熱意があれば、ハシゴというものを考えつく。ところが、ただなんとなく上がってみたいなあと思うぐらいでは、ハシゴを考えだすところまでいかない。「どうしても、なんとしてでも上がりたい。自分の唯一の目的は2階に上がることだ」というくらいの熱意のある人が、ハシゴを考えつくのである。いくら才能があっても、それほど2階に上がりたいと思っていなければ、ハシゴを考えだすところまではいかない。ぜひともやってみたいという熱意があればこそ、その人の才能や知識が十分に生きてくる」(幸之助秘書 江口克彦)

<熱意>
「人を起用するときに、能力はだいたい60点ぐらいもあれば十分やね。あとはその人の情熱でいくらでも伸びる。しかし、能力はあるけれども熱意が不十分だということになれば、そういう人をいくら起用してもだめやったな。熱意があれば必ず事業は成功する。けど、尋常一様な熱意ではあかんで。きっとこの事業を発展させようという、体ごとの、正しい熱意でないとな」

<熱意>
「松下幸之助はいつも経営のことを考えている人であった。経営に全身全霊をささげていた。会社にいるときは当然のこと、たとえテレビのCMを見ているときでも、自社製品はどうなっているのか、お客さまに十分に喜んでいただける商品を出しているのか。車に乗っていても、このあたりは看板が少ないから自社製品の売れ行きが悪いのではないかと、常に注意をはらって経営に結びつけていた。そしてヒントを得るとすぐに実行に移し、成功させていた」(江口)

<熱意>
「そのとき、私はほんとうにガツンと感じたのです。何か簡単な方法を教えてくれというような生半可な考えでは、経営はできない。実現できるかできないかではなく、まず『そうでありたい、自分は経営をこうしよう』という強い願望を持つことが大切なのだ、そのことを松下さんは言っておられるのだ、と。そう感じたとき、非常に感動したのです」
(「ダム経営をするにはどうしたらいいかと問われて」「ダム経営したいという「強い熱意」が必要だ」と言って会場を失笑させた
  幸之助の発言を聞いた稲盛和夫)

<ゼロベース思考>
「トヨタが要求する値引きはかなり厳しい。けれども将来の日本の自動車産業の姿を考えると、国際競争に勝たなければならん。この際トヨタさんの言うことをそのまま聞こうやないか。協力しようやないか。ここにある製品はないものと思って、まったく新しいカーラジオを一から作るという発想でやってみよう。出来んと言えば、うちも成り立っていかないし、トヨタさんも成り立っていかない。それでは日本の国も成り立っていかないことになる。一企業という立場ではなく、国家のことを考えて、これに取り組まんといかん」

<ゼロベース思考>
「日々の積み重ねとともに、その一方で、改善、改革をしていくときには、今あるものに継ぎ足すのではなく、
全部否定してゼロから発想してみる勇気を持つことも重要である。そこから大きな飛躍が生まれる」(江口)

<困難は自らの内にあり><原因帰属>
「世間は誰ひとりとして、きみの成功を邪魔したりせんよ。やれないというのは、外部の事情というよりも、自分自身に原因があるものなんや。外部のせいではない、理由は自分にあるんだということを、つねに心しておく必要があるな」

<原因帰属>
「松下は、物事がうまく運んだときは「これは、運がよかったのだ」と考え、うまくいかなかったときは「その原因は自分にある」と考えるようにしてきたという。これは人生の知恵として、理想的なバランスの取り方であると思われる。」(江口)


<幸之助の怒り>
PHPから出している書籍の新聞広告を見ながら「きみ、この本を出していること、わしはきみの報告を受けておらんで」と言う。
江口氏が「PHPの出版点数が増え、いちいちご報告するのもかえってご迷惑かと考え、毎月の発刊書籍の中から選んで数冊報告させていただくことにしました」と答えると松下の表情が厳しさに変わった。
幸之助「誰がそうしろと言ったんや。誰がそう指示したんや」
江口 「たくさん発刊した書籍をご報告することはご迷惑かと思いましたし、それにPHPの理念、考え方にそぐわないようなものは、しっかりと私が    確認させていただいておりますから」と眉間にしわをよせて睨むような表情の松下を見ながら答えると雷が落ちた。
幸之助「きみがそんなことを勝手に考えるとはなにごとか!きみは自分で十分にPHPの考え方を理解把握していると思っておるのか。それは過信では    ないか。頭の中だけで理解して、それを自分はわかっておる、理解しておると思っているだけや。わしから見れば、まだまだきみは頭では    わかっておるやろうが、腹では理解しておらん。腹でわかっておらんものが、理解しておるつもりで、判断する。そういうことはきみには    まだ許されることではない。
    そういうことはきみにはまだ早い。それに、わしに報告しないその本を、書いてくれた先生にも申しわけないではないか」
3時間ほど立たされたまま叱られ続けた。
(事前に幸之助に「量が増えたので選んで報告したい」と相談すべき。「すべて報告せよ」と指示を受けているのに勝手に間引いてはいけない)

<細部へのこだわり><徹底さ>
「きみ、電気ストーブのスイッチ、切れや」
松下幸之助のもとで最初の2カ月が経った、昭和42(1967)年11月の中頃。それまでほとんど注意らしい注意をされたことのなかった私は、内心驚きを禁じえなかった。松下グループの総帥である松下ともあろう人が、ストーブのスイッチを切るようにいちいち指示を出す。あまりに小さ過ぎる注意で、そんな細かなことを言うのは松下に似合わない、と思えたからだ。

<細部へのこだわり><徹底さ><完璧主義>
お客さまを招いたときには、約束の1時間か2時間前にやって来て、すべて自分で陣頭指揮をとりスケジュールを決め、係の者たちに細かな指示を与えるのがつねであった。私が松下のそばで仕事をするようになって、初めてお客さまを迎えたときも、やはり1時間ほど前に真々庵にやって来た。いろいろな人に指示を与えてから、私に、庭に回って歩くからついてこいと言う。歩きながら、ところどころで立ち止まっては、ここではお客さまにこういう説明をせよ、この石はなんの石と解説しなさいと、一つひとつこと細かに指示を出した。

<細部へのこだわり><徹底さ><完璧主義>
おいでになるお客さま十人分の座布団が並べてあった。きれいに並べてあると思った。私にとっては最初にお迎えすることになるお客さまであったから、緊張もし、精いっぱい気をつかってもいた。これで準備が整ったと思い、ホッとした途端に松下が、「きみ、座布団の並べ方がゆがんどる」と言う。えっ、と思いながら改めて見直してみたが、私が見るかぎり整然と並べられている。どこが曲がっているのかわからないままに松下を見ると、ちょうど私たちが小学生のころ教室で机を並べたとき、いちばん前の机に合わせて何番目が出ているとか言いあいながら並べたように、真剣に座布団を見つめていた。たかが座布団、そこまでしなくともいいのではないかと思いつつ、言われるままに並べ直していると、「その座布団は裏返しになっている。それに前と後ろが反対や」私は座布団の表裏とか、前後ろという知識は持ち合わせていなかった。どちらが表で、どちらが前なのか。一瞬ひるんでいる私に、松下は足もとの座布団を一枚取り上げ、「ええか、きみ。ここは縫い目がないやろ。これが前や。それから後ろ側の縫い目を見ると、一方が上にかぶさっている。こちらが表というわけや」そのときに、座布団の前に置かれた灰皿を畳の目数にあわせてまっすぐ並べるようにという指示も受けた。このような「小さな注意」を、私はそれから幾たびも経験することになった。

<細部へのこだわり><徹底さ><完璧主義>
『人間を考える』は幸之助にとって、とりわけ重要な本であった。原稿は吟味に吟味を重ねた。検討を始めて数回のところで、その手書き原稿は印刷会社にまわされた。校正を行うためのゲラ刷りとして、活字に組んでもらうためである。そのゲラ刷りによる内容の検討が、半年間、ほとんど毎日のように行われた。150〜160ページのゲラを最初から最後まで、1日かけて読み続け、細部の修正を重ねる。訂正が書きこまれたゲラ刷りは、印刷会社にまわしてきれいに印刷をしなおしてもらう。1カ所に数時間、あるいは1日かけて検討するということもあるから、毎日印刷をしなおすというわけではないが、それでも数日に一度となる。修正が15回を越えると私に文句を言いだした。
「江口さん、たいがいにしてください。いままでのうちのゲラ修正の記録は、大学の先生が12回か13回されたのが最高なんです。普通はせいぜい2回ですよ。そんなに何回も出されたら困ります」
「それはそうだろうと思うけれど、そこをなんとか……」
ということでなだめすかしながらの修正が、20回を越えると、印刷会社の担当者もあきらめたのか理解してくれたのか、「何回でもゲラ修正をしますから、どんどん出していただいてけっこうです」というように変わってきた。
半年のあいだ、通し読みを繰り返し、また部分読みもずいぶんとした。そのつど印刷会社には迷惑をかけたわけであるが、松下の人間観の検討は執拗を極めた。どんなに小さな言葉、どんなに小さな気になる文言も、見逃しはしなかった。

<細部へのこだわり><徹底さ><完璧主義>
松下の本のつくり方は、さすがにこれほどまで執拗ではないが、しかし「異常」であるとは言えるかもしれない。
所員相手に話して作ったその原稿をもとに、いわゆる「勉強会」が始まることになる。所員が声を出して原稿のコピーを読んでいく。松下も片手に鉛筆を持って原稿の字を追いかけていく。読んで、読んで、繰り返し読んでいきながら、必要に応じて「ここは書きかえよう」「ここのところは削除しよう」という指示を出す。その指示は実に微に入り細に入り、われわれ所員がなにもそこまで修正しなくてもと思われるほどの徹底さである。その指示に従って研究員は、同じ作業を繰り返すのである。この作業は1、2回で終わることは決してなかった。十数回そういう作業を繰り返しながら、一冊の松下の本がようやくできあがっていくのである。「人間を考える」は100回をはるかに超えている
そのうえで、いく人かに原稿の感想と意見を求め、さらに修正し、書き直して世に問うのが常であった。したがって1冊の本ができあがるのには、数カ月かかるのが常であったが、なかには数年かかるものもあった

<聞き上手、衆知を集める、徹底さ、過ぺき主義>
ことに先の「人間を考える」の原稿は、その修正回数、また意見を聞く人数において、はるかに他の著作をしのぐものであった。半年間にわたる勉強会が終わると、私はいつものように、外部のいろいろな方々の意見、感想を聞き廻るように指示された。有名な識者の方々はもちろん、松下の周辺にいる普通の人たち、幹部の人たちにも意見を聞きに行かされたから、その数は百人以上になる。多集められた意見は数百にのぼった。松下は、寄せられた意見、感想を一つひとつ丁寧に読み、吟味し、直すべきは直したが、自分が納得しない点については、いかに意見が多くても考えを訂正することはなかった。しかし、そういう批判、反対の意見はみな、松下の頭の中に入れられていたから、のちに質問を受けたときも、松下は簡単に自説を主張することができて、いわゆる論争に負けるというようなことはなかった。多くの人の知恵を集めることの実利である。自分の本に対する異常とも思えるほどの執拗さは、言うまでもなく自分の真意を正しく表現したいという思いと、もう一つ、読者の人たちに完璧な責任を果たしたいという松下の信念があったからだろう。


<天地自然の理 無知の利点>
「わしは学校を出ていないから、君たちのように学問や知識を頼りにすることはできなかった。世間の人たちの言うことも、いったいどれが正しいのか、正直なところ判断ができない場合が多かった。それで、わしはなにをひとつの拠りどころにしたかというと、この宇宙とか自然とか、つまり万物というか、そういうものやったな」難しい問題にぶつかる。どうしようかと思い悩むことがある。そんなときにじっと天地宇宙を考え、自然を、周りの景色を眺めてみる。お日さまをみていると、ああ、素直な心で考え、行動しなければと、自然に感じられてくる。お日さまは何に対しても分け隔てなく陽射しをおくっている。人間にも動物にも、植物や虫たちにも。あの人はいい人ですから陽を当てることにします、この人は悪い人ですから陽は当てません、ということはない。人間には当てるが植物には当てません、ということもない。その現象は、まったくとらわれてはいない。お日さまだけではない。この宇宙にあるすべての営みが、自己にとらわれていない。月も風も森の木々も、それぞれの考えや立場や主義主張にとらわれて行動を起こしているのではない。「考えてみればこの宇宙に存在する一切のものが、自然の理法に従って、おのれにとらわれず、それぞれの行動をしておるんや。人間も宇宙自然の存在ならば、同じように自然の理法に従って、自分にとらわれず考え、行動しないといかん」

メンバーのみ編集できます